青春の門・・・再び週刊誌に連載始まる

1969年 それは昭和44年のことだった。

ivyはサラリーマンで、片道1時間を超える通勤電車に揺られる毎日を送っていた。

御歳29歳の若かりし頃だった。

 

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五木寛之著「青春の門」は当時も週刊誌の連載としてスタートした。

あの頃は通勤の友として週刊誌は電車の中の楽しみでもあった。

まさに週刊誌ブームの時で週刊現代、週刊文春、週刊ポスト、週刊朝日、などなど、プレイボーイも平凡パンチもあった。

やがて書籍化されて、単行本、そして文庫本にと広まっていった。

第一部の「筑豊篇」の上下巻から買い始め、第二部の「自立篇」上下巻、第三部の「放浪篇」上下巻と続き、第四部の「墜落篇」上下巻は文庫本でなく単行本にした。ここまでが昭和49年。

 

ここから連載は続いていたが単行本化は間隔が遠のき、ivyも、その後、発刊されたのは買い求めていない。

昭和51年に第五部「望郷篇」から平成5年第八部「風雲篇」で終わっていたが、最近、テレビ番組に出演した五木さんが「青春の門」を「今、また書き続けてみたいと、もらしていた」。

 

今回も新 青春の門 第九部 漂流篇として2/4号(1/24発売)から週刊現代で連載がスタートした。

五木さん84歳。

現役を退いてから週刊誌は買わなくなったが、続けて連載を読むか、どうするか迷っている。

だが現役時代とは違う今、迷った末に買ってきてしまう。

1993年から24年もの間はどうして続けて書かなかったのだろう。

そして、もう一度 第一部 筑豊篇から読み直してみるつもりだ、時間は、まだある。

懐かしい重箱で丑の日に鰻重を頂きました



昔、それは昭和の二十年代頃だったかな。
ivyは小学生の高学年になっていた。
父親は板前で「おかめ食堂」という名の大衆食堂兼割烹料理屋を営んでいた。
我々、子供達は近くの祖父母の家に住み育てられた。
祖父も板前だったが稼業を長男(ivyの父親)に譲り、隠居生活を送っていた。
祖父の家を何故か本店と呼んでいたが、それはともかく、その本店の家に鰻を炭火で焼くコンロとタレの壺があったのを今でも鮮明に想い出すことができる。

ここは、隠居宅だから商売用の座敷もなく、蒲焼を客にもてなすことはなかった。
ここで祖父が焼いたものを父親の「おかめ食堂」へ提供していたらしい。これなら話として理解できる。
祖父が亡くなると父親が、ここで焼いていたことも記憶にある。

焼かれた鰻は、この重箱に詰められて「鰻重」として客をもてなしたらしい。
蓋は黒内側は朱色で黒色の「おかめさん」が描かれているが、金沢漆器だと思うが、今でも残っている。
そう、小さいころ大人たちが店の名を「おかめさん」と呼んでいたのも覚えている。
人さんから「おかめさんの息子さんかい・・・」なんて言われるの子供心にも恥ずかしいものだった。

普段は使わないので目に触れることはないが、この夏の丑の日に久しぶりに出してみた。
「おかめさん」の絵というか「おかめ食堂」のトレードマークだ。
そうだ、鰻重にして猛暑の夏に負けないようにいただこう。
十二支の「丑」のつく食べ物は「鰻」これが、どうやら土用の日に鰻を食べる慣わしになったとか聴く。

さぞかし「おかめさん」も、この日は繁盛したことだろうな。
もっとも我々、子供の口には入らなかったと思うが秘伝の美味しいタレの匂いだけは忘れていない。

鰻の蒲焼を買ってきて、重箱に詰める。



「山椒」の香りも味わいながら、一時、昭和の昔を想い出しながら美味しく頂戴できました。
鰻重で一句 浮かびました「土用入り親の鰻重今に継ぐ」。
 

家系図に挑戦

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写っているのは祖父母とハイカラ叔母さん(祖父母の次女)と私????
いえいえ四つ年上の兄貴です。
私は生まれていたかいなかったか???。
祖父は明治15年の生まれですから、兄貴の歳が四歳ころとして逆算すると、祖父の歳を知ることができそうですね。
57歳ころの写真ということになりますが、少し痩せて、みえますが、角刈りで普段から着物姿でした。
もっとも、隠居して家督は息子、ivyの父親に譲って、今でいう第二の人生を送っていた頃です。
祖父は昭和31年に行年75歳で亡くなっていますが、アッivyも今年75歳になる。・・・・・・・。

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祖父は「勢喜家」という割烹を営んでいました。
こんな「栞」が残っていました。
ivyは本の栞として大切にしていますが、当時は、どんな使い方をしていたんでしょうね。
和紙で作られています。歌舞伎も連想できそうですが、アッ料理の「折詰」なんかに既製「店の名」を名札がわりに使ったか。

前々から思っていた「家系図」。
親父が残してくれた「備忘録」を元に、手をつけはじめました。
今日、思い切って市役所に行って「戸籍」を調べてきました。
なんとivyを含めて五代まで遡れることができました。
父、祖父、曾祖父ここまでは普通ですが、更に高祖父というそうです。その上の人がご先祖さんを、なんというのでしょうか。
これには驚きました。
曾祖父は、なんと嘉永2年、西暦で1849年に生まれています。
これを元に更に詳細なデーターをパソコンのアクセスを使って入力を始めました。
消したり追加したりするには、やはりパソコンが便利です。
ここに自分史も絡めて、残そうと思っているのですが、とにかく、やりたいことが一杯で。。。。。。
少し時間は、かかりますが、今、やっておかなければ、そう思っています。
 

自分史も家系図も並行作業だ

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ivy家の家系図を作成しようと下準備を進めている。
幸いにも亡き父がメモ魔で、残して逝ってくれた貴重な資料が手元に残されている。
父親が書き続けていた記録をivyの代になってから、引き継いで書いてはきたが、このところ中断している。
家系図もそうだ。父親も、調べてくれていたが、完全とまではいかなくても、これもivyが引き継がなければと思っている。
自分史もパソコンになって時系列に整理できるから、年月通りに書かなくても、思いついた事柄を書いていけば、自然に年代順にソートもできる。

参考図書も図書館で借りてきた。「自分史年表」は、だいぶ前に買い求め一冊持っている。
市役所で戸籍も調べた。わからないところはお寺の過去帳を見せてもらおう。
実は父親が亡くなった時に、父親が書いてきた資料を元にパソコンに取り込み、この時点からivyが引き継いで書いている。
ところが、平成8年で止まっている。なんと19年間も空白のままなのだ。
いつかやろう、やろうと思いながら、今しかできない。
パソコンにと書いたが、あの当時はワープロだった。残念だ。いちいち再入力はできない。
アッ今は便利な時代だ。紙媒体の文章をデジタルスキャンしてしまう。この手があった。
WEBで検索してみよう。

想い出の小引出し〜祖父のことが少しづつわかってきました

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寒い日はストーブで部屋を暖めて、老前整理をしている。
今回は溜まったCDを思い切って整理し、古いCDはパソコンに保存してから処分した。
アッ!!この小引出し、昔、祖父は釣りが好きで千曲川の鮎が解禁になると鮎釣りに連れて行ってもらったことを想い出した。
祖父は、この引出しに釣り針を整理して綺麗に保管していた。材質は桐で、出入りの建具屋さんにでも作らせたようだ。
今、ivyは、パソコンやスマホ、カメラなどに装着して使うSDメモリーカードを入れて愛用している。

古い写真も整理しないといけないが、アルバムが何冊あるだろうか。
祖父が写っている写真も相当、残っているが、どれも貴重な記録で一枚たりとも処分することはできない。
兄妹だけでも見てもらいたいので、スキャンしてパソコンに取り込み、紙媒体に「想い出帳」でもと思っているが、これが、なかなか大変な作業で、いつになることやら。

ハイカラ叔母さん〜私の昭和時代



ivyのブログはこれまで、自分史のつもりで書き残してきた。これからも、そのつもりで書いていくつもりだ。
その為のカテゴリーを「私の昭和時代」とした。
実はfacebookを書いていたころ自分だけしか見られない非公開で少し書き残していた時の画像が保存されていたので、いつか、ブログの書籍化をするつもりなので、原稿として新規に書き残そうとおもいたった。
思いついたまま書いていくので年代順にはならないが、初夏になるまで庭仕事もないので、この時間を活用して書いていく。

加えて、私の歩んだ昭和の世相や話題なども列記していくつもりだ。
大袈裟に云うなら「私の歩んだ二十世紀」だ。
「自分史」は自分に家族に向かって書くのが普通だが、ブログは読んでいただく方も意識して書き方、表現にも配慮する。
そして、一週間もしたら「下書き」扱いにしてブログでは表示されないようにする。
ただ、記録は残るので、これを元に「私の昭和時代」としてブログの書籍化を実現したいと思っている。

第一回目は、こんな写真から書いてみよう。

私は子供の頃は背が低かった。この写真は小学三年生くらいか。九歳とすれば昭和24年(1949)か。
今は亡き親父には下に弟が二人、妹が二人いた。つまり長男坊として稼業を継ぎ生涯、商売人として生きた。
その下の妹が私の叔母に当たる人で群馬県太田市に嫁いでまもなく夫に先立たれ、嫁ぎ先のお茶屋さんを継いだ。

当時、祖父母も健在だったが、親父に店を継がせ隠居の身になっていた。
私たち兄妹は、祖父母が住む隠居宅で子供時代を過ごすことになる。
両親は商いに専念し、子供の養育は祖父母がみてくれた。
もっとも親が商いする店と隠居宅は歩いて2分もない距離にあり、子供たちは、毎日のように店と隠居宅を行き来していた。

隠居宅を私たちは何故か「本店」と呼んでいた。
その「本店」に叔母が実家として、よく帰省していた。
太田から叔母が帰省するたびの「お土産」が楽しみだった。
今でも忘れない。「紅茶」、「バター」、「ジャム」など。あの当時、「紅茶」で「パン」を食し、美味しい飲み物もあるものだなと子供心に、そう思った。
叔母には可愛がられたが「躾け」も厳しかった。
太田は暑いところで夏場は涼しい信州に長く滞在することが多かった。
時折り、どこからともなく「三味線」の音が聴こえてきた。叔母の趣味の一つだったようだ。
それから中学生になると、私の夏休みは太田の叔母宅で、長期滞在するようになる。
叔母には子供がいなかったせいもあったが。
太田は東武伊勢崎線で浅草までは日帰り圏で、ちょくちょく浅草見物に連れて行ってもらった。
高校生になると太田の市民プールの管理人をアルバイトで、させてもらったり、叔母の女友達で洋品店を営む家の娘さんにも紹介されて楽しい青春時代を過ごしたり、その後、叔母は店をたたみ、下宿人を一人おいた。その方は新聞社の記者で、大人になってからも交際が続いた。そして、ここで大人としての知識を吸収することになる。
その叔母も昭和57年に「心不全」の為、行年70歳で亡くなっている私が42歳の時だった。
私は本年75歳になりますから、叔母より5歳も長生きしていることになりますね。

追記
こうして自分史を書けるのは、実は亡き親父はメモ魔で手帳や日記に日々の「暮らし」を詳細に書き残していた。
親父が亡くなった時「備忘録」と書かれた一冊の大学ノートがあった。
この「備忘録」を跡継ぎとなった私が引き継ぎ、手書きから活字に変わったが、日々、書き続けているので、こうして「自分史」としても書けることに感謝しなければならない。・・・・・親父、ありがとう。
親父のこと、また祖父については書くことが山ほどあるが、この次に。
 
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