ハイカラ叔母さん〜私の昭和時代



ivyのブログはこれまで、自分史のつもりで書き残してきた。これからも、そのつもりで書いていくつもりだ。
その為のカテゴリーを「私の昭和時代」とした。
実はfacebookを書いていたころ自分だけしか見られない非公開で少し書き残していた時の画像が保存されていたので、いつか、ブログの書籍化をするつもりなので、原稿として新規に書き残そうとおもいたった。
思いついたまま書いていくので年代順にはならないが、初夏になるまで庭仕事もないので、この時間を活用して書いていく。

加えて、私の歩んだ昭和の世相や話題なども列記していくつもりだ。
大袈裟に云うなら「私の歩んだ二十世紀」だ。
「自分史」は自分に家族に向かって書くのが普通だが、ブログは読んでいただく方も意識して書き方、表現にも配慮する。
そして、一週間もしたら「下書き」扱いにしてブログでは表示されないようにする。
ただ、記録は残るので、これを元に「私の昭和時代」としてブログの書籍化を実現したいと思っている。

第一回目は、こんな写真から書いてみよう。

私は子供の頃は背が低かった。この写真は小学三年生くらいか。九歳とすれば昭和24年(1949)か。
今は亡き親父には下に弟が二人、妹が二人いた。つまり長男坊として稼業を継ぎ生涯、商売人として生きた。
その下の妹が私の叔母に当たる人で群馬県太田市に嫁いでまもなく夫に先立たれ、嫁ぎ先のお茶屋さんを継いだ。

当時、祖父母も健在だったが、親父に店を継がせ隠居の身になっていた。
私たち兄妹は、祖父母が住む隠居宅で子供時代を過ごすことになる。
両親は商いに専念し、子供の養育は祖父母がみてくれた。
もっとも親が商いする店と隠居宅は歩いて2分もない距離にあり、子供たちは、毎日のように店と隠居宅を行き来していた。

隠居宅を私たちは何故か「本店」と呼んでいた。
その「本店」に叔母が実家として、よく帰省していた。
太田から叔母が帰省するたびの「お土産」が楽しみだった。
今でも忘れない。「紅茶」、「バター」、「ジャム」など。あの当時、「紅茶」で「パン」を食し、美味しい飲み物もあるものだなと子供心に、そう思った。
叔母には可愛がられたが「躾け」も厳しかった。
太田は暑いところで夏場は涼しい信州に長く滞在することが多かった。
時折り、どこからともなく「三味線」の音が聴こえてきた。叔母の趣味の一つだったようだ。
それから中学生になると、私の夏休みは太田の叔母宅で、長期滞在するようになる。
叔母には子供がいなかったせいもあったが。
太田は東武伊勢崎線で浅草までは日帰り圏で、ちょくちょく浅草見物に連れて行ってもらった。
高校生になると太田の市民プールの管理人をアルバイトで、させてもらったり、叔母の女友達で洋品店を営む家の娘さんにも紹介されて楽しい青春時代を過ごしたり、その後、叔母は店をたたみ、下宿人を一人おいた。その方は新聞社の記者で、大人になってからも交際が続いた。そして、ここで大人としての知識を吸収することになる。
その叔母も昭和57年に「心不全」の為、行年70歳で亡くなっている私が42歳の時だった。
私は本年75歳になりますから、叔母より5歳も長生きしていることになりますね。

追記
こうして自分史を書けるのは、実は亡き親父はメモ魔で手帳や日記に日々の「暮らし」を詳細に書き残していた。
親父が亡くなった時「備忘録」と書かれた一冊の大学ノートがあった。
この「備忘録」を跡継ぎとなった私が引き継ぎ、手書きから活字に変わったが、日々、書き続けているので、こうして「自分史」としても書けることに感謝しなければならない。・・・・・親父、ありがとう。
親父のこと、また祖父については書くことが山ほどあるが、この次に。
 
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